昭和五十四年八月二十三日  朝の御理解


   御 神 訓
   一、神徳を受けよ 人徳を得よ、


神様の御信用を受ける、という事が御神徳なら 人の信用を受ける事が、人徳になるでしょうね、
あの人は信心しござるばってん と例えば云われるようでは人徳は得られない、それは信心の世界には此処で いつも云われますように、常識を外れておりますからね、と云うて決して非常識ではないいわゆる、超常識である。
ですから信心のない人は 超常識を非常識と見あやまる場合があるんです、私共は過去の信心の場合でも、そうでしたけれども 私が常識的な行き方で、皆誰でもが合点するような生き方で来ておったなら 今日の合楽は生まれておりません。
もう親身になって 私の事を心配して下さり、本当にあんたが信心するのは良いけれども 両親に不自由をかける様な、子供達に
家族中が不自由するような、あんたが本当に商売もしきらん と云うなら仕方がないけど 商売させりゃ一人前の商売人と思うておるから 商売させて頂きながら そして信心は信心でしたら どうかと、云われたじだいがございました。
またそれを 同じような意味の事を いろいろ云うて下さる方がありました。もうそれは どこまでも親切であり、もう涙がこぼれる程 有難かったんですけれども、その自分の私にはそれこそ神様の仰せには背かれん、という一途でございましたからね、
例えそれが親兄弟が申しましても それは私にとって親は世界中で一番大切なものはと聞かれると 答えるより外にない位に大切な親です。けれども その親が云うても神様の仰せには背かれん、
という生き方を貫いて参りました。
だから その時分は親不孝に見えたかん知れませんし、また強情な人ぢゃな、というふうに見えたかん知れません けどね、ま、
そういうところから 合楽の信心は産まれとりますから、やはり
超常識、超道徳とか言葉を使って申します。
道徳的な事ではね、人は助からんのです、常識家では人間が幸せになる事にはならんのです、
御神徳を受けなければ 人間の幸せというものは もう絶対ありませんです、神様の御神「 」を受けなければ 人間の幸せというものはありません。
いえ 私の方にはお金がありますから、物がありますから、健康ですから という人が幸せと云う事ぢゃないです。
幸せというのは もうどんな場合であっても、有難いと 云う答えが出る、それが幸せです。
どんな場合であっても、勿体ないという心が生まれてくるのが幸せです。幸せと云う字を書いて逆様にして読んでごらんなさい、
やっぱり 幸と読めるでしょう、
まともな あれがあるから これが足ろうとるからでは なら成程幸かも知れませんけれども それが反対になった時に もうその人は幸せではないのです、幸せというのはどのような場合であっても心の中に、有難い心が生まれてくるのですね。
昨日あたりの御理解をもう一辺頂いてみると良いですね。
御神徳を受けるという事はどこまでも、だから神様一途の生き方
そこに神徳は神様の下さるもの、受けられるもの、けど人徳はそうでない、人徳は自分の精進努力で得るものである。
だから、それが足らはなければいけない、私は今日神様から
「ホウレンソウからフダンソウ」という事を頂いたです。
勿論 お野菜のね、ホーレンソウ、此処では皆さんがほうれんそうの信心をなさっておられます。
それこそ私が まあ非常識と思われるように、人が もうどんなに何というても 起きてくる事態そのものを、そのまま私が頂いた。という時代、私の修業時代の四年半の事。
金を呉れ といえば在るだける、貸して呉れといえば貸してやる、もうどんなに棒にも箸にもかからんような病人を預かって呉れといえば預かる、まあ、ありとあらゆる事がございましたよね。
それでも神様に 私の上に起きてくるすべての事に 黙って受けます事を、修業といたします。
火の行もしました、水の行もしました。様々な行もしました。
けれども、私の心のなかに合点のくる、おかげになって来なかったそこで そういう修業からね、私の上に起きてくるすべての事を
向こうに圧しる様なことは致しません、それを黙って受ける、又は合掌して受けると、いう行き方、それが合楽の 合楽理念の芯に
なりました。成行を尊ぶとか大切にする、という事です。
その四年半が過ぎて あと半年で五年の記念祭があるという 丁度半年前に頂いたのが今のほうれん草でした、ね、    
ほうれんそうに よって力も受けた訳なんですけれども、私はそのほうれん草を 一切合切 黙って受けた という事が 神様のお試しの時代と云えば お試しの時代であったかも 知れませんが私はお試しとは感じないで受けろというから 受けて参りました。
そしてこれからは ほうれん草を頂く事が信心なんだけれどもね、云わば それが血にも肉にもなると いう事でしょうけれども、もう畑から ひっこ抜いてきてまだヒゲもついとりゃ 土もジャキジャキする様な、赤い葉もついとる、それをそのまま頂いた四年半
だった。これは あまりもの信心ぢゃ と神様が言うて下さる様にになった、これからは心に合点がいく、いうなら 常識的に考えて頂けるものだけを頂けよと、云うことになって以来。
例えば病人を預かってくれ、と いうても私は断ります。
金を呉れと云うても、貸して呉れと いわれても絶対貸しもしません、与えもしません。
まあ いろんな、黙って受ける、というから まあ難儀の様な事もありますけれど、常識的に考えてみて、家で受けられないものは
受けられません、けど これは神様が受けてくれと云わんばかりの様な問題、難儀というものは ね、これは今、合楽の信心の芯になってますからね、昨日の御理解なんか頂くと、尚よく分る。
一切と一つになる、これを双抱性原理に基づいての合楽理念、と
云う事を聞いてもらったですね、
だから そういう本当に神様まかせの生き方から 神様の御信用が受けられる事になります。
だから これは神様信用して下さい私をと、いうても神様が信用
しなさらなけりゃ仕方がない、云わんでも神様があの氏子は間違いない、と云う時に初めて下さるのが 御神徳なんですね。
人徳というのはそうでない、
人徳はやはり、商売人がどこよりも良い品物を しかも安く売るならば その店には必ず信用が集まります様に、私共の精進努力と
そして今日、今、ほうれんそうの意味を聞いて頂きましたが、ならその、ほうれん草から、フダン草という事が、これは最近云われる土の信心に極まった と云われる合楽の信心に これから残されて居る、天の信心、天の心を心とする信心。
フダン草というのは そういう意味が含まれておるな、という事を改めて気付かせて頂きました、ね、
フダン草の信心、もう常平生の在り方生き方が、成程、金光様の
御信心をしよんなさるから違うなあ、と信心のない人でも思えて頂くような在り方が 普段の信心、と 私は思うのです。
心が美しい、例えば天の心と云えば 云うならば無条件の限りない麗しの心と、私どもがそういうふうに、頂いとりますけれども、
よの麗しの心、無条件とか云うことには、私どもは本当の勇気が
無ければ出来ません、
そこに 私どもは信心度胸という事が云われます。
いわゆる頂きます、というものが私ども、天の心に伴わないと、全うすることは出来ません、それでいて、初めて 天の心というものを味わう事も出来れば 頂く事も出来るのです。
だから残されておる、天の心というものを、わたしどもが頂かせて頂いた時に、完璧な信心、もう本当に合楽教会ぐらい評判の悪い
教会はございません、もうどこえ行っても評判が悪いです。
ところがひとたび合楽に足を踏み込んだら、合楽の内容を聞いたり見たり実際 此処でおかげを頂いてみると、合楽から離れられん様になるというのが今まででした。
だから私の考えの中に、問題は力さえ受ければいい、人が助かりさえすればいい、助かりすればよい、そのために力を受けなければ、そしておかげを、こうして如実に現わして行く、だから
このおかげをみろ、と このおかげを見たら合楽の信心が間違っとる、とは云えないだろう、とまあ云うならば、まあ云わんでよい
合楽のこと とやこうおかげを頂いて、ますます発展繁昌のおかげを頂いて、それを見せて合楽を示して行こう と いったようなものが、私の心の中にあった。
合楽の信奉者の中にもやっぱりそれがあった、まあ考えてみると
これは間違っとるように今日改めて思うのです ね、
例えば、試験に受かりさえすればよい、一生懸命試験勉強をする。その試験勉強は身にはつかん、と云われとります。
本当に勉強が好きになる手立て、自分が、するなと云われても、
せにゃおられない勉強 それであって はじめて勉強が身につくのであり、また学徳と云われる様な 徳にまで高められて行く為には好きな人でなければ出来ん、とにかく学徳を受けるために頑張ろうと云うように頑張った信心から 勉強からは学徳は生まれてまいりません、それが好きで好きでたまらん、それこそ二宮金次郎ぢゃないけれども ね、自分の勉強する夜の油を、菜種を作ったという説があります、山へ行き戻り たき物を担いでからにでも本を見る。もうそれが楽しうして楽しうしてたまらん、そして自分に学問が
身について行く、いわばこれが学徳であろうかと云う徳が身についてくる時には、嬉しうして 楽しうして こたえん。
合楽で云われる 嬉しうして 楽しうして、しかも愉快にまで、というのは そういう信心を身につけて行っとる人達でなければ
本当のことは 味わえんのではないかと思う
おかげ頂きたいばっかりに勉強をしよる、これでは本当な事ではないね、お相撲さんでもそうです ね、
勿論、勝負の世界ですから 勝てば良いのです、もう
どういう手立てを以ても 勝つ事なんです、けどもやはり大関横綱といわれるようになるとです、ね、いうならキタナイ相撲をとると大関相撲、横綱相撲ではない、横綱のくせに あげな手を使うて、というふうに、いわれる事がありましょうが。
なら合楽でも やっぱり末は横綱を めざしているのです。
ですから その横綱がです、その、とても合楽ちや ろくな奴ちゃなか、と云われとったんでは これは本当の足ろうた信心と、いう事ではない、私は今日を境に いよいよです。
もう兎に角合楽の信心は素晴らしい、
内容が素晴らしいだけではなくて 普段の信心が違う、とにかく
合楽の信者の あり方を見てみよ、と只、信心が深いというだけでなく、どこから見ても 成程金光様の信心として 恥ずかしくないおかしくないような、人柄、というものが出来てくる。
そこに初めてその人柄が、そのまま人徳になってくる、という事
ですから、精進がいるわけです。
合楽は、御神徳を受けて成程 此処で助かった人は、例えば此処で云うならば 親先生親先生 というでしょう、けれども此処に縁のない人達は もう兎に角合楽はろくな奴ぢゃないと それを実際
私共聞くんです。
そこで、なら此処でそのしるしに こんなおかげ頂いておる
必要なものが必要に応じて現われておる、頂ける程のお徳が合楽には備わっておる、これを見てくれ、こういう事を聞いてくれ、と、例えば云うてもです、仲仲それを合点して頂かないです、
例えば金光教が始まってですね、合楽の南米布教なんて、布教に出て、言葉もわからんのにです、黒人が助かり、白人が助かり、現地人が助かり 勿論日本人も助かり、そういう事は今まで かって
なかったです。だから合楽理念をもってすれば 海外布教はもう
こういう素晴らしいおかげを受けられると 本部の中央に持って行っても、ほうそりゃ素晴らしいな、それなら合楽理念をいっちょ
勉強しようかと、 まあ 私は不思議でたまらんです、ね、人が助かると、ね、なら人が助かると いわゆる不況の事についても腐心いたしとります、教団全体が、それに、なら合楽でこれだけ人が助かっとるから、合楽の信心をいっちょ勉強してみろか、合楽の信心を習おうかと、いうものは もう、ごく少ないです、
これだけでも合楽は評判が悪いことが わかるのです。
合楽には それこそ金光様がお書きになった様々な軸とか 額とかいろいろ集まってます、もうこれ見ただけでも合楽に素晴らしい、お徳がある、そのお徳に集まってくると、云う事が云えるぢゃないか、ほう、そげなこつの と云うて聞くだけです、
そりゃ素晴らしい、そういう働きの起こってくる基には、どういう信心があるだろうと、それに関心を寄せる人が、ごく少ない。
結局合楽に これは私を中心にして人徳がないから、駆けてるからと思うのです。
これからもう合楽に、天の心といわれとりますから、天の心の中には、人徳が備わってくるような働きという そういう作用が起こってくるのです。
天の心には限りなく、無条件で麗しい、と云う心、これを潔い心で表わしていくと、いう事なんですから。
そういう 足ろうた信心から、私はね、誰でもが合点する 私が
いろいろと、合楽の御比例の事については、確かに何かがあるぞ、合楽には、と いうふうに皆が関心を持ってみえた事は本当なんですけれども いわば 何というですか、悪名返上 という事になりますか、あまりにも悪名が高すぎる、もう兎に角 勝ちさえすればよい、人が助かる事さえ出来れば良い、そのためには少々キタナイ手を使ってでも助かりさえすれば、よいじゃないか、そして
助かっておる有様が、合楽の上に現われておる。
これを見よ、こんなに間違いないんだよ、と いうような自慢にもなりかねない様な状態が、合楽の内容にあったんだと、これはもういよいよもって 謙虚にならなければいけない。
本当に力を受けて、稔る程かがむ 稲穂の様な信心姿勢というものが、出来ねばいけない、他所に行って成程見る時、 先日或る先生が研修に行って もう本当に他所の教会の信者の幹部の話を聞いとって まるっきり幼稚園の者と話とる感じがした、という事を聞きましたがです、確かに合楽の信心は そういう程に高度なんです。だから 高度だからといって高飛車に合楽の信心が素晴らしいと云うて、自慢気があったんでは、その素晴らしい事にもついて来なかった、というのが今日までの合楽の信心ぢゃ ないでしょうか。
ここに、天の信心を全うしてです、ついて来なければおられない。教団全体の人達がです、合楽の信心を本当に分からしてもらう。
頂かしてもらおうと、云うような気運が生まれてくるためには、
合楽自体が まづは おかげを頂いて慢心とか、自慢気ではない、只、有難いの、一念がです、人の信用を買う事が出ける、そこに
いわば人徳を受ける、という事には そういういろんな精進が、
努力がいる、勝ちさえすれば良い、いわば勝負の世界ですから、
そうなんです、宗教の世界に於いてもです、宗教というのは、人間が助かる事の為に 宗教の本質というのは、人が、人間が助かる事だと思うんです。
ですから 助かる事さえ出来れば良いのですけれども、周囲から
非難されたり、悪う云われたりする様な事ではなくてですね、
金光教は素晴らしい、合楽は素晴らしいと、信心のない人からでも云われ、思われる様な信心の内容に 土の信心で鍛えた内容をね、発揮して行けれる内容を、頂きたい、と思います。
                    「どうぞ」